Daily Essays



30 Sep 2019

今月23日、ニューヨークで開催された国連・気候変動サミットにおいて、
スウェーデンの16歳の環境活動家、グレタ・トゥーンベリ
Greta Thunberg さんの
悲痛な叫びとも言える演説がなされ、大きな反響を呼んでいる。

問題は、このサミットで表明された「温室効果ガスを2050年までに実質排出ゼロにする」
という誓約を77ヶ国がした中に主要排出国が含まれていないことだ。
主要排出国は、1位の中国、2位のアメリカ、インド、ロシア、日本がトップ5ヶ国で、
この上位5ヶ国で世界の二酸化炭素排出量の半分以上を占める。
つまり、いくら国連で誓約が表明されても主要排出5ヶ国が参加しなければ
地球温暖化を食い止めることはできないということだ。

グレタさんの必死の演説は、心あるものならば誰だって強く共感するだろう。
16歳の少女は政治家の汚さを十二分に理解している。
だからこそ必死で涙ながらに訴えたのだ。
彼女の勇気を心から讃えたい。

私も過去にこのエッセイの中で環境破壊の危険を訴え、
私利私欲を捨てて環境を守ることの大切さを訴えたが、
どれほどの人が読んでくれただろうか。

私にできることの一つとして、ほんの小さなことでしかないが、
ここに彼女の国連演説の全文を掲載する。
これが多くの人々の心に届くことを願うばかりである。



「私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。
そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。
私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。

あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。
よく、そんなことが言えますね。
あなた方は、その空虚なことばで私の子ども時代の夢を奪いました。

それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。
生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。

なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。
よく、そんなことが言えますね。

30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。
なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、
この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。

あなた方は、私たちの声を聞いている、緊急性は理解している、と言います。
しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。
もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、
あなた方は邪悪そのものです。

だから私は、信じることを拒むのです。
今後10年間で(温室効果ガスの)排出量を半分にしようという、一般的な考え方があります。
しかし、それによって世界の気温上昇を1.5度以内に抑えられる可能性は50%しかありません。

人間のコントロールを超えた、決して後戻りのできない連鎖反応が始まるリスクがあります。
50%という数字は、あなた方にとっては受け入れられるものなのかもしれません。

しかし、この数字は、(気候変動が急激に進む転換点を意味する)「ティッピング・ポイント」や、
変化が変化を呼ぶ相乗効果、有毒な大気汚染に隠されたさらなる温暖化、
そして公平性や「気候正義」という側面が含まれていません。
この数字は、私たちの世代が、何千億トンもの二酸化炭素を今は存在すらしない技術で
吸収することをあてにしているのです。

私たちにとって、50%のリスクというのは決して受け入れられません。
その結果と生きていかなくてはいけないのは私たちなのです。

IPCCが出した最もよい試算では、気温の上昇を1.5度以内に
抑えられる可能性は67%とされています。

しかし、それを実現しようとした場合、2018年の1月1日にさかのぼって数えて、
あと420ギガトンの二酸化炭素しか放出できないという計算になります。

今日、この数字は、すでにあと350ギガトン未満となっています。
これまでと同じように取り組んでいれば問題は解決できるとか、何らかの技術が解決してくれるとか、
よくそんなふりをすることができますね。
今の放出のレベルのままでは、あと8年半たたないうちに
許容できる二酸化炭素の放出量を超えてしまいます。

今日、これらの数値に沿った解決策や計画は全くありません。
なぜなら、これらの数値はあなたたちにとってあまりにも受け入れがたく、
そのことをありのままに伝えられるほど大人になっていないのです。

あなた方は私たちを裏切っています。
しかし、若者たちはあなた方の裏切りに気付き始めています。
未来の世代の目は、あなた方に向けられています。

もしあなた方が私たちを裏切ることを選ぶなら、私は言います。
「あなたたちを絶対に許さない」と。

私たちは、この場で、この瞬間から、線を引きます。ここから逃れることは許しません。
世界は目を覚ましており、変化はやってきています。
あなた方が好むと好まざるとにかかわらず。
ありがとうございました。」

(NHK NEWS WEB」より)



ⓒ Jessica Gow



ⓒ Reuters




28 Apr 2018

「あなたは何者ですか?」
この問いにジョセフ・クーデルカは答えて言った。

「言葉にすることはできない。
自分がある状況にある時、どのようにふるまうかは
分かっているつもりだけどね。
それで十分だろう。」


このクーデルカの言葉は人間存在の在り様の核心を突いている。
妥協することなく真摯に生きてきたからこその言葉だ。

私もそのようでありたい。




7 Apr 2018

心に傷を負いながら生きることは容易いことではない。

何故人は他人に対して、我欲のために
こんなにも暴力的でいられるのだろう。

生きていくには何かが必要だ。
何かしら、奇蹟のような、
慈悲に満ちた贈り物が必要だ。

それを求めても得られはしない。
誰も助けてはくれない。

私たちにできることは
ただ祈ること。

人間の作り上げてきた歴史が、
ひたすらに暴力の連鎖でしかないとしても、
そこに何か、希望があったと、
ひとかけらでも希望があったと、
信じて祈ること。

私は時に人間の醜さに耐えられなくなる。
それでも人間は神の被造物である。

この矛盾に答えはない。




6 Apr 2018

ヘミングウェイのあの有名な言葉、
「移動祝祭日」
その言葉の意味が実感として私にもわかるようになった。

「移動祝祭日」とは、元来、例えば復活祭のように
毎年日付が変わる祝日のことを意味するようだが、
ヘミングウェイは、もちろんそれを知ったうえで、別のことを意味していた。

パリはまさに「移動」するのある。
どこにいても現れるのである。

世界のどこにいようとも、ある時、ある瞬間に、
パリの街並みが脳裏をよぎった時、
パリはその場所へやって来て、まさに目の前に現れる。
まさしく「移動」するのだ。

そして眼前に現れたパリの街並みはいつまでも消え去ることはなく、
深い余韻とともにいつでも優しく包み込んでくれる。
夜のしじまにカーテンを開け、そこに見える光はすべてパリの街の光だ。
パリに包まれつつ迎える朝焼けも、パリで目にしたあの朝焼けと
何ひとつ変わらずにそこにあり、私とともに在る。

パリはまさしく「移動祝祭日」なのだ。

パリに終わりはない。

私たちの心がそれを求めている限り。




4 Apr 2018

パリに戻ってすぐに感じたことだが、自分の皮膚感覚が
パリの街と同化している。自分の存在がこのパリの街の中に在り、
この街を形作っている自然な調和を構成する一つの要素として
何の違和感も、何の矛盾も、何の不自然さもなく溶け込み、
私の皮膚とこの街の境界がないかのようだ。

これが人間としてこの世界に存在するということの証左であり、
私が人間として、確かにこの世界の中に存在するためには
このパリの街が絶対に必要なのだ。

肉体は世界のどこに在ろうとも、私は常にパリとともに在り続ける。
私がパリと共に在り続ける限り、これから私に訪れるであろう
いかなる苦難も、私は恐れることはないだろう。

地上に生きることの悲哀。
それは私にとって、恐ろしいほどの現実であり、
耐え難いほどの苦痛である。

パリは私の背に翼を与えてくれはしないが、
私の魂に大きな自由を与えてくれる。
地上に生きることの哀しみは癒えることはないが、
パリはほんのひと時にせよ、それを忘れさせてくれる。

パリに生き、パリに死す。

それが私の望みである。









6 Dec 2017

ゴンサロ・ルバルカバの「Charlie」という、名ベーシスト、
チャーリー・ヘイデンに捧げたアルバムを聴いた。


ここには亡きヘイデンへのメンバーそれぞれの熱い想いが、静かに、
しかし決して感傷に流されずに、重い告白のように綴られている。
それぞれが自身の音楽性のすべてを出し切り、同じ一点だけを
(それがヘイデンであることは言うまでもない) 見つめながら、
お互いのプレイに耳を澄ませ、何かに取り憑かれたように、
深い精神性の中に没入し、高度なインタープレイを繰り広げている。
インタープレイの極致といってもいいだろう。


何と深い演奏だろう。何という一体感だろう。
これほどハイレベルな演奏は、長いジャズ演奏史上でも屈指のものと思う。
この演奏を作り上げたメンバーすべてに、そしてその高みへと導いた
亡きヘイデンに、最大限の賛辞を捧げたい。

この至上のレクイエムを、ジャズ・ファンのみならず、
音楽を愛するすべての人々に、静かに聴き入っていただきたい。

圧倒的な名演である。





25 Jul 2017

いま日本では安倍政権に、自民党政権に逆風が吹いている。
あれほど傲慢不遜な態度で、あれほどの暴挙をやり続けていることに
政治家が馬鹿にしている国民もようやく気付き始めた。
処罰されることを恐れて口をつぐんでいた人々も
少しづつ発言できるようになってきた。
このHPでも閲覧できないようにしていたものを復活させていこうと思う。

ヨーロッパでも自国第一主義を掲げ右傾化していた流れも
オランダとフランスの大統領選の結果を受けて沈静化してきた。
マクロン大統領の出現の効果は非常に大きい。
アメリカでもトランプ大統領が政権運営に支障をきたすようになってきた。
ISも崩壊しようとしている。

第3次世界大戦へと傾いていた大きな流れが変わろうとしている。
どの国も戦争の準備を始めていたが、
どうやら戦争は、少なくとも世界大戦のようなものは避けられそうだ。
戦争が始まる一歩手前で、民衆はその恐ろしさに気付いたのだ。

戦争が回避されようとしている。
そのことがいまはとても嬉しい。

しかし戦争を始めようとしていた一部の政治家たちは
それが未遂で終わったとしても、戦争を起こそうとしていた罪で
厳正に処罰されなければならない。
そうでなければ再び同じことが起きてしまう。

戦争が回避できてほっとしているのもいいが、
どういう経緯で再び戦争に突入しようとしていたのか、
その流れをきちんと検証してみる必要がある。

ヒトラーの台頭を生んだのは他ならぬ民衆である。
安倍自民に票を投じたのも他ならぬ民衆である。

政治家ばかりが悪いのではない。
戦争に傾いたのは民衆の責任でもある。

そのことを一人一人が自分の問題として考えてみる必要がある。

自分の無知と無責任と無理解と
自分の心の中に棲みついている悪について。




21 Jul 2017

平和とは、ある一つのイデオロギーで世界を統一することではない。

平和とは、猫が日々入念に毛繕いをしていることである。




5 Jul 2017

朝日新聞(Globe)に、東京で開催されている世界報道写真展からの
1枚が紹介されていて、その光景の美しさに目を奪われた。


ⓒ Jonathan Backman, Thomson Reuters

アメリカ・ロイター通信の報道写真の1枚で、黒人への暴力に対する
抗議デモの一場面で、一人の女性が重装備で固めた警官の前に、静かに、
ドレスの裾を風になびかせながら、恐れることなく対峙している。
その黒人女性は静かに連行されていったという。

彼女の名は、イエシア・エバンス。
撮影者は、ジョナサン・バックマン。

こういう美しい光景を目にすると、世界情勢に危惧を抱いている人なら
誰でもそうだと思うが、人間の美しさを信じたくなる。
まだまだこの世は捨てたものではない、と思いたくなる。
暴力では何も変えられない。
世の中を変えるのは愛に貫かれた非暴力の精神なのだと、
彼女の美しくも勇気のある行為が示している。
キング牧師の精神が、現代にもまだ息づいている。

彼女の勇気と愛の力を賞讃せずにはいられない。




4 Jul 2017

あなたはひとり旅立っていった
振り向きもせずに
別れも告げずに
なにも持たずに
キスひとつせずに

でも私の目はあなたを追いかけていた
あなたの姿が遠く見えなくなるまで
あなたの姿が地平線の彼方に消えてしまうまで

あなたは私たちに沢山のものを置いていった
それは私だけでなく
私の兄弟たち
子供たち
そしてその子供たちが
人生を生きていくのに必要なすべてのもの

あなたはどこへ行くのですか
何を探しに行くのですか
何を追い求めているのですか
目的地はあるのですか
十分な食べ物はあるのですか
苦しくはないのですか
寂しくはないのですか
休んではいけないのですか
立ち止まることは許されないのですか

私は知っている
あなたが耐えてきた苦悩を
あなたが受けてきた屈辱を
あなたが苦しんできた無理解を
あなたが流してきた涙を
あなたが発してきた嗚咽を
あなたが受けてきた裏切りを
あなたを苦しめた心臓の痛みを
あなたが耐え忍んできた時間の流れを
あなたが見つけた小さな喜びを
そしてそれを踏みにじった者たちの汚らしい言葉を

旅立つ必要なんてなかったのに
更なる苦しみと孤独に身を置く必要はなかったのに

あなたはもう十分に苦しんだ
もう十分過ぎるほどに苦しんだ

それでもあなたは行ってしまった
あなたはそれでも行ってしまった

私は想像してみる
あなたの安らかな微笑みを
でもそれが私の中で像を結ぶことはない
あなたの顔はいつだって苦しげだ
でもそれは慈悲の心に満ちていた
険しいけれど愛に満ちていた
そしてそれは私たちの生きる勇気となった

もっと一緒にいたかった
もっと一緒に歩きたかった
もっと一緒に泣きたかった

あなたから学びたいことは
まだまだたくさんあったのに

でもそれはあなたの意思だ
あなたがあなたであるために
やむを得なかったことだ

あなたの笑顔が私の中で像を結ぶとき
それはあなたが天に召されたことの証なのでしょう

あなたの笑顔を思い浮かべようとするのは
ひとつの罪であるに違いない

でも、どうしても、私はあなたに笑顔でいて欲しい
それを願った罪で地獄に堕ちようとも

私の罪が私を地獄へ堕とし
あなたを天国へ導くのなら
あなたとあの世で離ればなれになろうとも
私は本望だ

私にとって、あなたは私のすべてなのだから

愛しています




4 Jun 2017

優れた芸術作品というものは必ず
それに触れる人の心の奥底にある正義感を呼び覚ますものである。

バッハやベートーヴェンの音楽を聴いて
正義への熱い想いに打ち震えない者がいるだろうか。

想像してみて欲しい。
その作者がどれほどの葛藤に苛まれたのか、
そこに至るまでにどれほどの試行錯誤があったのか、
どれほどの屈辱があったのか、
どれほどの苦悩を耐え忍んで生きてきたのか、
どれほどの偏見と誤解と闘ってきたのか、
どれほどの裏切りにあったのか、
どれほど多くの痛みに耐え、
どれほど多くの涙を流してきたのか。

常に闘って生きてきた人間なら誰にだってわかるはずだ。
運命の定めるところに従い、逆境と闘って生きてきた人間なら
誰だってわかるはずだ。

書物を買う。
美術館へ行く。
演奏会に行く。

そこには常に闘って生きてきた姿がある。


闘う人間に幸あれ。
闘う者を嘲笑する者に災いあれ。


命懸けの芸術に栄光あれ。


命懸けの芸術家に、神の祝福あれ。


正義は必ずその人の内にこそある。




22 Mar 2017

いま私は自身の幸福に向かって生きているのか、
それとも幸福であることを拒否して生きようとしているのか、
そもそも生きようという意思はあるのか。

幸福のさなかの死。

幸福の絶頂で死ぬという、
その一点に向って生きているのではないか。
私にとって、幸福とは死を意味しているのではないか。

お前は誰だ、
何処から来たのだ、
何処へ行こうというのか。

パリは私にとって、
生きるための場所なのか、
死ぬための場所なのか。

ともかくも私はパリへ向かおうとしている。
生きるも死ぬも、
パリの街が私を導いてくれるだろう。

パリまでもうすぐだ。
もうすぐパリだ。


もうすぐ、


ルオーのキリストの涙まで。




22 Feb 2017

どうしても、そういう生き方しかできない、
好むと好まざるとに関わらず、否応なしに
どうしてもそういう風にしか生きられない、
というような、ぎりぎりの鬩ぎ合いの中で、
生命を紡いでいかなければならない。
それが正しいか正しくないか、それが善であるか悪であるか、
選択の余地はない。
もちろん、どこまでも正しく生きようと、
どこまでも正しい人間であろうとする絶え間ない努力を
続けていく中で、という意味においてのことであるが。
その上で、人には、避け難く、抗い難く、
どうしてもそういう生き方しかできない、
というぎりぎりのところに終局的に行き着いたならば、
そこにどれほどの苦しみがあろうとも、
やはり、そうあることが、それこそが、
その人にとっての真実であり、それこそが、
その人の唯一の存在理由なのである。




30 Jan 2017




A新聞の広告より




17 Jan 2017

先日、あらためてメジューエワの弾くシューマンを聴き、
どうしてもそのCDのレビューを書きたくなって
あるサイトに投稿したので、ここでも紹介したい。


これほどの名演に対し誰のレビューもないので、僭越ながら書かせていただく。
メジューエワという、この音楽史上でも稀有なピアニストがいつまでも
過小評価されているという現状に、まず苦言を言わなければならない。
彼女が世界的にまだあまり有名ではないこと、ほとんど日本国内だけで
活動していること、大手のレーベルに属していないこと、この3点をもって
過小評価されているのであろう。多くの聴衆は自分で価値を判断する能力がなく、
世間の評判に流され、誰かの受け売りをまことしやかに語る。
そういう人は私に騙されたと思って、まずこのディスクを聴いてもらいたい。
はっきり言うが、これは世界に数あるシューマン演奏の中でも、トップクラスの名演である。
ここではあえて「クライスレリアーナ」に絞って書くが、その解釈とそれを実現させる
テクニックは尋常ではない。音の一つ一つにしっかりと意味を持たせ、多彩な表情を
見せる演奏の仕方はピリスに近いが、ピリスのように感情が揺れ動くような
多彩さではなく、まったくぶれない。曲の最初の一音から最後の一音まで、
驚くべき集中力で、決して次の音を急ぐことなく、その音が弾かれるべき正確な
タイミングで発せられる。すべての音がそうであるというのは、並みの精神力では
実現できるものではない。圧巻なのは、抑制された表現が続くなか、終わり近くで
抑えきれない狂おしいまでの感情が堰を切って溢れ出し、それが幾重にも重なって
巨大な音塊となって迫ってくるところである。最初の一音から続いてきた
長い音の旅がすべて、ここに至って初めて聴く者に圧倒的な説得力を持って
全体像として投げかけられる。このような表現をなしえたのは、過去には
ホロヴィッツのみであろう。この曲を得意としたホロヴィッツにも比肩しうる
素晴らしい名演である。このような真の言葉で綴られる演奏を目の当りにしたら、
作曲者のシューマンでさえ涙を流すであろう。
メジューエワという類稀な芸術家と同じ時代を生きていること、そして同じ国に
住んでいることは、かけがえのない財産である。彼女が日本に定住するという
奇跡のような選択をしてくれたことは、私たち日本人が誇りとしてよいことであるが、
同時に彼女がこの国に失望することのないよう、自らを戒めて生きていくべきであろう。
私のこの文章を読み、大袈裟だと思うだろか。大袈裟だと思う人に向けて、
私はあえて言いたい。メジューエワは天才である。それは彼女の演奏が
語っていることであり、そう思えないのならば、その人は音楽を聴いて
理解する能力がないか、心が貧しいか、そのどちらかである。




16 Jan 2017

今日、驚くべきニュースが目に留まった。曰く、
「第3次世界大戦を見たくないから、安倍晋三首相からの
ミサイル供与の申し出を断った」
フィリピンのドゥテルテ大統領の言葉だ。

日本が世界中に武器輸出をしているということは
ある程度分かっているつもりではいたが、
担当閣僚や官僚だけの話ではなく、
首相みずからが露骨に営業して歩いているとは!
続いてベトナムにも日本製の巡視船を提供したとのこと。
Made in Japan の武器が世界中に拡散している。
大きなニュースにはなっていないが、
日本は知らないうちにステルス戦闘機や潜水艦も作っている。
過激な発言で有名なドゥテルテ大統領よりもはるかに
モラルが欠如し、恐ろしい武器商人になっている。

私は首相だけを攻撃したいのではない。
もちろん手先となっている首相も悪いのだが、
武器を売ることで、あるいは戦争を始めることで
多額の利益を得るのは誰なのか、考えれば見当のつく事である。

フィリピン大統領の発言を「驚くべき」と書いたが、
もはや驚くべきことではなくなってきている。

武器を輸出して儲かる人たちは既に十分に裕福な人々であり、
何故、これ以上にお金が欲しいのか、
何故、罪もない民衆を不幸に陥らせたいのか、
何故、世界中の尊い命を危険に曝し、奪いたいのか、
私にはまったく理解できない。

世界規模の巨悪を前に、私はまったく無力だ。

かつてマハトマ・ガンディーはインドの独立をめぐる騒乱の時
あなたはこういう事態を目の当たりにして、何故何もしないのか、
という問いかけに答えて言った。
「祈ること、それ以上に何か有益な方法があるだろうか」と。

私も祈るよりほかにないのかもしれない。
世界中の人々が幸福であれと、
幸福に生きる権利を奪われることのないようにと、
かけがえのない命が不当に奪われることのないようにと、
人と人とが殺し合うことのないようにと、

ただ祈るよりほかにないのかも知れない。









24 Dec 2016

今年のクリスマスに、どうしても引用したい詩がある。
正確には歌詞であるが、誰の何という曲かはあえて書かない。
その方が効果的であるし、作者も私の底意を理解してくれるだろう。
このクリスマス・イヴに、一人でも多くの人がこれを読み、
その意味を考えてくれることを切に願う。



メリークリスマス
二人のためのワインと それから君への贈り物を抱えて駅を出る
メリークリスマス
外は雪模様気付けば ふと見知らぬ誰かが僕にそっと声を掛けてくる
メリークリスマス
振り向けば小さな箱を差し出す
助け合いの子供達に僕はポケットを探る
メリークリスマス
携帯電話で君の弾む声に もうすぐ帰るよと告げた時のこと
メリークリスマス
ふいに誰かの悲鳴が聞こえた
正面のスクリーン激しい爆撃を繰り返すニュース
メリークリスマス
僕には何も関係ないことだと
言い聞かせながら無言でひたすらに歩いた

メリークリスマス
僕達のための平和と 世の中の平和とが少しずつずれ始めている
メリークリスマス
誰もが正義を口にするけど 二束三文の正義
十把一絡げの幸せ つまり嘘
メリークリスマス
僕はぬくぬくと君への 愛だけで本当は十分なんだけど
メリークリスマス
本当は気付いている今この時も
誰かがどこかで静かに命を奪われている
メリークリスマス
独裁者が倒されたというのに 民衆が傷つけ合う平和とは一体何だろう
メリークリスマス
人々はもう気付いている 裸の王様に大人達は本当が言えない

メリークリスマス
いつのまにか大人達と子供達とは
平和な戦場で殺しあうようになってしまった
メリークリスマス
尤も僕らはやがて自分の子供を
戦場に送る契約をしたのだから同じこと
メリークリスマス
子供の瞳は大人の胸の底を 探りながらじわりじわりと壊れてゆく
メリークリスマス
本当に君を愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ
メリークリスマス
その隣で自分の幸せばかりを 求め続けている卑劣な僕がいる
メリークリスマス
世界中を幸せにと願う君と
いえいっそ世界中が不幸ならと願う僕がいる

メリークリスマス
僕は胸に抱えた小さな 君への贈り物について深く深く考えている
メリークリスマス
僕は君の子供を戦場に送るために この贈り物を抱えているのだろうか
メリークリスマス
本当に君を愛している 永遠に君が幸せであれと叫ぶ
メリークリスマス
本当に本当に君を愛している 永遠に永遠に君が幸せであれと叫ぶ

メリークリスマス
凍りつく涙を拭いながら
メリー メリークリスマス
生きてくれ生きてくれ生きてくれと叫ぶ
メリークリスマス
雪の中で雪の中で雪の中で
メリークリスマス
白い白い白い白い雪の中で

メリークリスマス
メリークリスマス
・・・・・・





26 Nov 2016

私がまだ子供だった頃、世界というものは
いったいどれだけ広く、いったいどこまで続いているのか、
まったく未知であった。
過去は果てしなく過去となり、
未来というものの行きつく先が見えてきたいま、
途方もなく長い時間を耐え忍んで生きてきたいま、
いつのまにか世界はちっぽけなものになっていた。
私が希望を抱いて未知を目指し、
前だけを向いて生きていくには、
この世界はあまりにもちっぽけなものになってしまった。

私の魂は人類の歴史の過去も未来もすべてを呑み込んで、
なおお腹をすかせ、その日暮らしの孤児のように
この世界を彷徨っている。

もう太陽が昇らず、夜の暗闇が何処までも続いていて欲しい。

夜の暗闇だけが、いまの私の救いである。





10 Nov 2016



No, No, No !!
We have to say No, No, No !!, again and again and again!!
This is the beginning of the end of the world.
We must not accept this fact.




20 Aug 2016

カフェ・ド・フロールでヘミングウェイの「移動祝祭日」を読んでいた。

「美しいひとよ、私はあなたに出会った。
そして、今、あなたは私のものだ。
あなたがだれを待っているにせよ、
また、私がもう二度とあなたに会えないにしても…」

そしてヘミングウェイは続ける。

「あなたは私のものだ。
全パリも私のものだ。」


とても美しい午後だった。
私はあなたに出会った。
こんなにも美しい街にいる。
こんなにも美しい人々の中にいる。
それでも、私はこの街を離れようとしている。
永遠が私の指の間から零れ落ちようとしている。

この、フロールでの午後に永遠を感じた。
私のパリへの愛は永遠だ。
それでも、私はこの街を離れようとしている。

優しく穏やかで爽やかな風が吹き始めた。

パリはこれから、一年で最も美しい季節を迎えようとしている。





16 Jul 2016

悲しいニュースが続いている。
フロリダで、イスタンブールで、ダッカで、ニースで、
テロが乱発している。
そしてトルコではクーデター事件が起こり、
多数の死者を生んでいる。
いま世界は病んでいる。
世界は危機に瀕している。

それでも、パリの街を歩いていると、
機関銃を持った兵士を多く見かけはするが、
パリの人々はいつも通りに街を歩き、
子供たちは公園で遊んでいる。
パリに街は平和な日常の中にあるように見える。
パリの人たちは本当に強い。

私がパリで撮影している写真を見ていただきたい。
地下鉄の窓越しに映っている茫然と座る老人、
カフェで目をくるくるさせている可愛らしい子供、
フランス国旗がたなびく凱旋門の前でジープの中でうつむく兵士、
セーヌにかかる橋の上で男性にキスをし愛を誓う女性、
美しい光景ばかりではないか。

そういうスナップ写真は既に
ドアノーやブレッソンがやっていた仕事を踏襲しているだけであり、
何の驚きもない、と言う人もいるだろう。
しかしそれが現代社会の中で、リアルタイムにいま、
この病んだ世界にもそんな美しい光景が、
それに気付く心さえあれば、たくさんあるのだ、
それを世界に向けて発信すること、
それがいま、非常に大切なことなのだ。

病んだ心そのままの醜い現代美術や、
幼稚な落書きのような作品とも呼べないようなもの、
いまの美術界はそういうものに飼いならされている。

もう一度、本当に美しいものに
しっかりと視線を向けようではないか。

もう一度言うが、
それに気付く心さえあれば、
この世界はこんなにも美しい。

それに気付くことが、それこそが、
この病んだ世界をより良いものに変えていくのである。





10 Jul 2016

今日は改憲勢力が日本で大勝している
という悲しいニュースに胸を痛めた。
日本は軍事国家への道をまた一歩進めたことになる。
先日も自民党がホームページ上で
政府に逆らう教育者を誰でも報告できるようにしたと聞いた。
独裁政治が教育の現場にまで及ぼうとしている。
政治の間違いを正そうとする心ある教育者が
幼い子供やその父兄の密告によって退職を迫られ、投獄される。
そういう状況が再び生まれようとしている。
それは幼い子供に悪魔の心を芽生えさせ、犯罪を犯させようとしているのである。
そして日本は憲法改正の邪魔者を消し去り、
戦争は正しいと子供たちに教え、秘密軍事国家となっていく。

そういう巨悪を前にして、私は何をしたらいいのだろうか。
有効な手段がまだ何かあるのだろうか。
どうしたらこの恐ろしい流れを止められるのだろうか。

私には答えが見つからない。

それでも、人間は美しい生き物だと信じたい。
美しく正しい心を持った人間は人類の中で少数派かもしれない。
しかしそういう人間は確かに存在し、この世界を憂いているだろう。

私は、それしか手段を持たないのであるが、
芸術を通してそういう人々を結びつけ、
それがやがて大きな力となっていく、
そういう願いを込めて作品を発表していくしかない。

私を夢想家と思うだろうか。
そう言いたければ言うがいい。

私はただひたすらに人類が正しい選択をすることを願うのである。

地球が破壊されようとしているから火星に逃げようという企みがある。
それは間違いだ。
私利私欲を捨て、地球環境を再び良いものにし、
すべての動植物が遠い未来まで共存していける、
そういうところを目指さなければならない。


私の命など、どうということはない。
しかし犬死はしない。
美しいものを破壊するものと
私は闘いつづける。





9 Jul 2016

先日、ようやく私の好きな場所へ行ってきた。
ノートルダムのあの美しい後姿にようやく挨拶することができた。
それは私が19歳で訪れたあの時と少しも変わらぬ姿だった。
25年前と少しも変わっていない。
私にとって永遠不変のものがあるとすれば、それはパリだ。
だからこそ私はパリを愛し、再びこの街に来たのだ。

私の思考と感性はパリの天空を駆け巡る。
私は天と地をつなぐ役割と使命を身にまとい、
その運命を背負って生きている。

私は100年先の世界を生きているのだ。
パリに来てそのことがはっきりとわかった。

寺山修司の言葉を思い出す。

百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる





30 Jun 2016

パリに来て1ヶ月。
どうやらパリは私を受け容れてくれたようだ。
洪水も納まり、パリは平静を取り戻し、
私はパリの日常に溶け込む。
ずっと以前からここに住んでいるかのように。
ここには過剰もなければ不足もない。
すべてのもの、すべての人が、
それぞれの人生の重さを背負いながらここにいる。
私も背負いきれないほどの荷物を背負ってここに来たが、
パリはその荷をほどいてくれた。

ここでヘンリー・ミラーの言葉を引用したい。

「ぼくは諸君のために歌おうとしている。
すこしは調子がはずれるかもしれないが、
とにかく歌うつもりだ。
諸君が泣きごとを言っているひまに、
ぼくは歌う。
諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる。」


私も歌おうと思う。
しかしミラーのようにではない。
高らかにではなく、密やかに。
ノクターンのように。
あるいはヴェロニカの微笑みのように。




4 Jun 2016

パリが洪水に見舞われている、というニュースに驚いた。
今日セーヌ川の畔に行ってみると、確かに驚くほどの水量だが、
まだ氾濫してはいない。
聞けば、150年前に観測を始めて以来、
5月としては一番の雨量とのこと。
ルーヴルやオルセーも地下の所蔵品の移動に追われ、休館している。
普段はあまり表に出ずに過ごしている
松葉杖や車椅子の障がい者たちも
この光景を直に見ておこうと、河岸にたくさん来ている。
観光客たちも、名所スポットではなく、
この異常事態をカメラに収めようとたくさん集まっている。
氾濫こそしていないが、橋を流れるにはギリギリの水位だ。

しかし、カメラに収めて喜んでいる場合ではない。
地球上の異常気象の一端が、このパリでも起こっているのだ。
地球温暖化の影響がもうこんなところまで来ている。
地球温暖化の話は、もはや「どこか」のことではない。
パリの洪水のニュースを、緊迫した警告として
人類すべてが深刻に受け止めなければならない。

二酸化炭素の排出規制を定めても、
世界が足並みをそろえて前進するにはなかなか至らない。
先進国でも新興国でも、同じである。
よりコストは安いが二酸化炭素の排出率が極めて多い
石炭の使用が減るどころか増えているという。
石油の利権をめぐるマネーゲームは絶え間なく続き、
そのため電気自動車や水素自動車の開発も遅々として進まない。
オーストラリア近海では、水没している島もたくさんあるという。


人類よ、己の愚かさを知れ。


人間の営みを見守ってきたセーヌの流れが
われわれにそう言っているように

私には思われた。




13 Apr 2016

何故われわれはこんなにも音楽に魅了されるのだろう。
音楽とは、ただの空気の振動である。
ただの空気の振動に過ぎないものが、
われわれの心を激しく揺さぶり、
それによってわれわれの感情や知性が
様々な化学反応を起こし、
それは時として人生を変えるほどの力になる。

ダイヤモンドというものは、
古来より人々を魅了してやまないものであり、
人間界においては大きな価値を持っている。
しかしそれは、ただの炭素の塊に過ぎない。
その炭素の塊に過ぎないものが、
人々に幸福をもたらしもすれば、
時として人の人生を狂わせ、
殺人の動機になるほどの魔力を秘めている。

空気の振動に過ぎないもの。
炭素の塊に過ぎないもの。

われわれの人生を変えるもの、
そして人類の歴史を変えるもの、
それは案外、小さなことなのかも知れない。





23 Mar 2016

昨日ベルギーの首都、ブリュッセルでテロが起きた。
昨年11月にパリでテロが起きたばかりで、厳戒態勢の最中のことだ。
しかし私にはそれほどの驚きはない。
先進国ならどこでテロが起きても不思議はないと
常々思っていたからだ。

ニューヨークのテロの後、スーザン・ソンタグが、
アメリカは何でもなしに他国から狙われたのではない、
狙われるだけのことをアメリカはしてきたのだ、
という発言をしたら、袋叩きにあったという。
無理もない話だが、私は彼女の言に正当性があると思う。
先進国はいままで自分たちの利益ばかり追求し、
後進国を食い物にしてきた。
国連も先進国の論理でしか動かない。
つのる不満が爆発したのだと思う。

ポール・オースターも同じ立場の見解を示した。
ニューヨークのテロの後、アメリカは舵取りを間違った、
テロの後はアメリカが正しい道を歩みだす絶好のチャンスだったのに、
無能なブッシュ政権がそのチャンスを潰してしまった、と。

私も含め、先進国で暮らす人間は自分たちの在り様を
謙虚に考え直さなければならない。
後進国を食い物にしている現状を正しく認識し、
偽善でも欺瞞でもなく、
世界中の人々が同じ価値を持つのだということを認め、
世界のすべての人々と共に歩んでいくのだと、
認識を改めなければならない。

ニューヨーク、パリ、ブリュッセル、
テロの犠牲になった人々の命を無駄にしないためにも、
我々は思考を切り替えていかなければならない。
報復攻撃などは断じてやってはならない。
憎しみが憎しみを生み、再びどこかでテロが起き、
また多くの尊い命が奪われるだろう。
もちろんテロを正当化するつもりはなく、
それは卑劣で残虐な行為であり、許されてよいものではない。
それでも、自分たちに非があるのだと、
謙虚に認めて生きていかなければならない。

テロをなくすのは報復攻撃ではなく、
人を思い遣る心である。
より良い人間であろうとする努力が
世界をより良いものに変えていくのである。




8 Mar 2016

およそ1ヶ月前にありえない発言を聞いた。
電波停止。
現職の総務大臣の発言である。
公平性を欠いた報道は、国家の権限で電波停止にすると。
そして国会の質疑で、総理大臣もこの暴言を肯定している。
「公平性を欠いた」とは、もちろん本当の公平を指してはいない。
政府の意向に逆らう発言は抹消されるということだ。
念のためにもう一度書くが、
政府に逆らう者は口を封じられる、ということだ。

昨年末から日本の報道界で起きている事象がある。
それは、物言うテレビキャスターが相次いで降板するという事態だ。
いずれも政府に逆らった発言が原因となっている。
そのキャスターの代わりに指名されているのは、
政府の言いなりになる骨抜きの人間ばかりだ。
テレビキャスターを降板させただけでは満足せず、
国民すべてから自由な発言を封じ、
政府はいよいよ独裁体制を強化している。

日本にはもはや自由な発言権はなくなってしまった。
否、個人の自由という権利がなくなったと言っていいだろう。
北朝鮮の独裁政治を非難している当の日本政府が
日本を独裁政治体制にする過程を加速させている。
単なる独裁体制ではない。
再び戦争を是とする危険な秘密主義独裁国家体制である。
憲法9条も変え、日本は再び大日本帝国となろうとしている。
他国に攻め入り、多くの命を奪い、
日本の兵士も不条理のうちに命を奪われる。
そして罪もない数多の民間人も犠牲になる。
人々が意に反して命を奪い、意に反して命を奪われる。
憎しみが憎しみを呼び、互いを罵り、殺しあう。
そんな不条理な悲劇が再び起きようとしている。

これが私の妄想だと言うならば、
同じ目線で世の中を見渡していただきたい。
私の発言を裏付けるものばかりだと気付くだろう。

この私のエッセイをお読みになった方は注意していただきたい。
私のこのエッセイ欄が閲覧できない状態になった時は
国家によって私の口が封じられたとご判断いただきたい。
このホームページ全体が閲覧できなくなった場合も同様である。
もしかしたら私の存在自体が消されている可能性もあり得る。
あるいは何らかの罪を着せられて投獄されている可能性もある。

そういう危険を冒してまで私が言いたいのは、
絶対に戦争をしてはいけないということだ。
人間の命を奪ってはならないということだ。

首相は「国民の生命と財産を守る」と言っているが、
国民の生命を危険に曝そうとしているのは
当の日本政府である。

この「日本」という文字、
美しいままであってほしい。
平和な国のままであってほしい。

日本が戦争に突入することは
断じてあってはならない。

もはや不可能かも知れないが、
日本が戦争を回避する道を選ぶことを切に祈っている。




6 Mar 2016

昨今の現代美術の状況は実に嘆かわしい。
はっきり言えばくだらない。
そのくだらないものに群がって大金が動く。
もういい加減に皆に、その馬鹿馬鹿しさに気付いてもらいたい。

最近、村上隆の展覧会が開かれており、注目を集めているようだが、
馬鹿馬鹿しくて見に行こうと思うことすら馬鹿らしい。
しかし、美術雑誌の記事が目に留まった。
名古屋覚氏の「はい、バカです」という記事だ。
村上氏の展覧会に展示されている作品に書かれた文言が紹介されている。

「でもなんか僕はこの日本の現代美術界が嫌いです。
作品も若い連中の進化が全く見られない。(略)
世界に飛び出せるだけの作品をつくっている作家の少なさ
そして理解力の弱さに憤る日々です。(略)
甘えと無責任と不勉強とバカの温床地なママなのが
日本現代美術業界です。(略)
バカならバカなりの身の程を知ればいいのに(略)
美術大学という産業の喰い物となった学生たちが
その構造に気が付き絶望したり自らが先生の立場となって
弱肉強食の食物連鎖のTOPに立とうとしてきた。(略)
僕はそういう日本美術大学+現代美術業界をケイハツして
一人でも良質なアーティストを世界に出したいと思うのです。」

言い得て妙とはこういうものだ。
現代の美術業界をよく表している。
しかしこれを書いた村上氏も「バカ」の一員であり、
美術界を堕落させてきた人種の一人である。
名古屋氏も書いているが、上記の文言は
村上氏が自分自身も含めて言っているのだろう。
芸術の現在と未来を真剣に考えて憂えている人間が
この日本にもいるということが嬉しい。

しかし上記の文言が村上氏の心からの声であるならば、
彼に命懸けで本当の芸術作品を作ってもらいたい。
批判と自虐で終わるのではなく、
芸術のあるべき姿を、自らの手で提示してもらいたい。

こういうことは日本だけの話ではない。
世界中が同じ問題を抱えている。
美術家のみならず、批評家たち、
そして鑑賞するすべての人々に
私の声が届くことを願うのである。

すべての人が、真摯に自らを問いただし、
より良い世界を目指して生きていくことを
私は願うのである。





19 Feb 2016

不敵でありながら哀しげに。
不敵であるが故に哀しげに。

ブラッド・メルドーのピアノを聴きながら、
自分自身のこととして、その有様を思った。

ヘミングウェイにとっての闘いの意味を考えながら。
ツェランにとってのミラボー橋の意味を考えながら。

ヘミングウェイが自殺したのは、この世がもはや闘うに値しないと
感じとったからではなかったのか。
闘うに値しない世界に絶望したからではなかったのか。

ツェランが自殺したのは、この世にもはや愛すべき者が
存在しないと感じとったからではなかったのか。
愛し愛されるという関係の不在に
絶望したからではなかったのか。


メルドーの冴えわたる不敵な音楽は
まだ底を見せていない。
彼は自殺するようなタイプではないと思うが、
哀しみを伴うその旋律と饒舌なタッチは
ゆく当てのない宇宙空間に突き抜けてゆく。
それは、エリック・ドルフィーの想いと重なり合う。

音が虚空に消えていく。
それはやはり恐怖であるに違いない。


音が消えていくとき、
その人間もまた
消えてゆくのだ。









9 Oct 2015

芸術とはそもそもなんであろう。
この問いに答えを持っている人は少ないと思う。

いまパリに来ているが、
芸術の意味を知っている人には出会わない。
皆、芸術をファッションか何かだと考えている。
作品の奥底にある魂を汲み取ることのできる人は、
このパリの地においても稀有なのだろう。
オルセーのゴッホもさぞ居心地が悪いであろう。

芸術とは、魂の叫びである。
その叫びは、作者のみならず、
人類すべての叫びである。

作品を見て叫び声が聞こえないならば、
それは見る者に心がないか、
あるいはその作品にそもそも魂がないか、
そのどちらかであろう。

昨今は、誰も真剣に芸術を語りはしないし、
語るべき相手にも出会わない。

バッハやベートーヴェンの音楽は、
どこをどう切り取っても完全に正しい。
人が道に迷った時に必要とされるのは、まさにそういうものである。
進むべき道を照らし、向かうべき方角を教えてくれる、
そういうものとして存在するのが、他ならぬ芸術というものである。

じっと作品と向かい合って欲しい。
聞こえてくるはずだ、
こっちへ来なさい、と必死で叫んでいる芸術家の声が。
見えてくるはずだ、
この明かりを目印にまっすぐに歩いてきなさいと
必死で叫んでいる芸術家の姿が。

真の芸術作品とは、そういうものである。
人間が、人類が、
過たず正しい道を歩いて行けるように、
道標となってそこに存在する。


あなたの目は
何を見ていますか。



あなたの耳は
何を聞いていますか。


私の声は
届いていますか。





7 Oct 2015

愛とは、与えられるものではなく、奪われるものでもない。
ただそこに在るものなのだろう。
それがあまりにも日常的に存在するために、
多くの人はそれに気付かなかったり、
失われてしまったと勘違いしてしまうのだろう。

神とは愛であり、愛とは神である。
神の被造物である人間もまた愛である。
私たちは自らが愛の存在であり、
愛に包まれていることに気付く必要がある。

愛するものを失ったと感じる時、
確かにそれは辛く耐え難い。
しかしそれは見え方が変わっただけなのである。
見え方が変わっただけで、愛するものは変わらずにそこに存在する。

しかしそんなことは、愛を失ったと思い絶望しているものに
言ったとしてもほとんど意味をなさない。
愛が奪われたのではないということに気付くには、
絶え間ない不断の努力と忍耐が必要である。
自らのうちに内在する愛を日頃から意識し、
自らを大切にして生きていかなければならない。

それが愛の本質である。




28 Sep 2015

夜が真夜中と婚約する午前零時、
喧騒が静寂へと姿を変える午前零時、
冷気が体内へと忍び寄る午前零時、
子宮の奥で言葉が生まれる午前零時、
人間の顔が妖しく影をまとう午前零時、
悪魔が天使に愛をささやく午前零時、
世界が世紀末へと向かう午前零時、

野良犬の遠吠えが
夜のしじまにこだまする。





25 Sep 2015

およそ1週間前のことである。

戦争法案の参院での可決・成立。

分かっていたこととはいえ、私の祖国が、
こんな破廉恥な暴挙が公然と行われるような野蛮な国に成り下がったことに
深く、深く、憤りを覚え、怒りと悲しみで胸が張り裂けそうになる。

日本は平和主義国家の道を完全に放棄してしまった。
国家が人殺しを公然と許可する
そんなことが許されてよいはずがない。
これくらいのことは小学生でもわかる。
しかし政府や官僚にはそれがわからない。
小学生程の道徳もない者らが国のトップにいる。
学校の先生は子供たちにどう説明するのだろう。
もはや道徳教育さえ不可能だ。
マスコミも政府の管理下に堕ちてしまった。
何が正しくて、何が間違っているのか、
それをわからずに子供たちが大人になったとき、
間違いを間違いだとはっきり言える人間がどれだけいるだろうか。

日本人の多くは、少しばかりの知識はあったとしても
教養のある日本人は本当に少ない。
国家が間違いを犯したとき、
それを間違いだと認識できるには
深い教養が必要である。

教養もない、道徳もない、人間味もない、
その集合体がいまの国家を動かしている。

我々にいま、何が残されているのか、
我々にいま、何が可能なのか、
忌まわしい連鎖を断ち切る術が、
まだ我々に残されているのか、
そしてこの私の問いは誰かに伝わり得るのか。

人殺しの国、日本。
そうは呼びたくない、呼びたくないが、
これが現実である。

多数決は民主主義ではない。
この国に民主主義など存在しない。

戦争法案の可決。

それは奇しくも私の誕生日であった。
何という皮肉。
耐え難い苦痛に満ちた日であった。




24 Apr 2015

少し以前から、「グローバル」という言葉が頻繁に使われるようになった。
グローバルという言葉が良いものとして定着しつつあり、
グローバルという考え方が着実に浸透しつつある。
私は予てから疑問に思ってきたが、
誰も疑問に思わないのだろうか。

グローバル化が推し進められていくと、
必然的に地域性とその特色がなくなっていき、
その地域の固有の文化が失われていく。
世界中どこでも同じものが同じ価値で存在するようになっていく。
それぞれの国、それぞれの地域の土着の優れた文化が
否応なしに失われていく。

グローバル化というのは、世界中をひとつの価値基準で統一し、
自由の名の下に、資本主義の名の下に、
労働者から知らず知らずのうちに搾取し、資産家たちが自らの懐を肥やし、
資産家の間だけでお金が循環していくように仕組まれたシステムなのである。
資産家が自らの利益を守り、そのために世界を食い尽くしていこうとする
巨大なシステムが、グローバル化という考え方なのである。

これは有史以来かつてなかった規模の、策略である。
これは疑う余地のない巨悪であり、
世界規模の犯罪なのである。

我々は一刻も早くそれに気付き、
この巨悪のシステムの増大を防ぎ、
自分の労働の対価を正当に守り、
それぞれがそれぞれの文化とその価値を、
古来より培ってきた美しい土着の文化と価値基準を、
我々一人ひとりの人間としての誇りをかけて、
取り戻していかなければならない。

これを私の妄想と思うだろうか?
否、これは、これこそが、現実である。

我々はマスメディアに洗脳されることなく、
自分自身を取り戻していかなければならない。

私のこの警鐘を、真摯に受け止めてくれるといいのだが。




22 Apr 2015

近頃、誰かの言動に人情や誠実さというものを
感じることがほとんどなくなってしまった。
社会は益々軽薄になり、人々の繋がりは希薄になり、
そこから産み出される文化も益々浅薄になっている。
富める者は株価の数字を睨み、
貧しさを強いられる者は野菜の値札の数字を睨み、
人々は言葉ではなく、数字ばかりを気にしている。
数字の中には、人を思い遣る心がない。
最後に温かい思い遣りの言葉を聞いたのは
もう随分前のような気がする。

こんな世相にあって、本当に誠実に、愚直なまでに誠実に、
生きている人間が、誰かひとりくらいいてもいいのではないか。
そう思うなら、少なくとも自分ひとりは、
そういう生き方をしなければならないのではないか、
打ちひしがれた人々に寄り添うような、
温かい心で人に接していくべきではないのか。

近頃、そんなふうに思っている。




5 Feb 2015

ドビュッシーと言えばミケランジェリ。
それが通説であるし、私もドビュッシーはミケランジェリで聴いてきた。
しかし、あまりにも鋭すぎて、ドビュッシーの解釈として、
これが本当のドビュッシーなのかと疑念を抱いてきた。
ある時、内田光子の「12の練習曲」を聴いて、
そこにいささかの曖昧さはあるものの、少しドビュッシーに近づけた気がした。
そしてベロフの2度目のドビュッシーに出会った。
実に繊細で大胆なドビュッシーである。
微妙なアーティキュレーション、刻々と変化する自在なリズム、音の余韻の美しさ、そしてユーモア。
私は本当に大きな喜びを持ってこの録音を聴いた。
ここに収められているすべてがドビュッシーである。
これこそがドビュッシーなのだと初めて感じた。
そしてドビュッシーの偉大さに気付いた。
私はようやくミケランジェリの呪縛から解放され、
いま心からドビュッシーを楽しんでいる。
これからドビュッシーを演奏し、録音する者は、
必ずこのベロフの2度目の録音を意識しなければならないだろう。


そして私は思った。
芸術には世界を変革する力があると。





3 Feb 2015

主は惜しみなく与え、
主は惜しみなく奪う。

いったい誰が理不尽だなどと言えようか?

われわれに許されているものは、
一滴の涙のみである。

すべての始まりと
すべての終わりには
沈黙だけが横たわる。

沈黙だけが愛の証左である。










25 Dec 2014

音楽というものに何を求めるか、人それぞれ異なるだろう。
真実を求める人、安らぎを求める人、昔を懐かしむ人、刺激を求める人、
求めるものは異なっても、音楽は人間の生活に不可欠であるように思われる。
私もその一人で、音楽なしには生きられない。
古今東西のあらゆるジャンルの音楽を聴き、
それによって私の芸術活動が成り立っている。
聴き慣れたものでも、日々新しい発見がある。
そしてそれは、私の創作に直接的に作用している。

私の場合、懐古趣味という聴き方はありえない。
古い音楽も数多く聴くが、そこに一片の真実を求めて聴くのである。

かつて小林秀雄が言っていた。
音楽を聴くというのは、本を読むのと同じくらい注意力と集中力が必要なのだと。

一流の音楽家であるならば誰しも、
自分にしかできない音楽とは何か、
いま自分が取り組まなければならない音楽とは何か、
現代のみならず、未来に向けて発信すべき音楽とは何か、
ということを常に真剣に考えているだろう。

「楽しい」聞き方というものを否定する訳ではないが、
一枚のレコード、一枚のCDに込められた音楽家の想いというものに、
真剣に想いを馳せてみてはどうだろうか?





24 Dec 2014

e.s.t.というピアノトリオが存在した。
ジャズのみならず、音楽界を常に挑発し続けていた。

しかし2008年6月14日、リーダーのピアニスト、
エスビョルン・スヴェンソンの不慮の事故死によって
あまりにも突然に終止符が打たれてしまった。
まだ44歳だった。

彼らは究極のジャズの進化形を我々に提示してくれた。
耽美的なものと醜悪なものが混在する独特の音楽。
私には、常に不敵な笑みを浮かべているように思え、
底の知れない巨大な宇宙を体現しているように思えた。
新作がリリースされる度に新しい姿を見せた。
それは実にどこまでもエスカレートしていった。
まるで破綻へと向かってまっしぐらに疾走しているようであり、
何かに取り憑かれているようであった。

彼らの音楽は、ある意味、無神論的だったかもしれない。
しかしそこにあっけない終止符が打たれたのは、
神の救済だったのではないだろうか。

これほどの大きなスケールを持った音楽は、もう生まれ得ないかもしれない。

彼らの音楽はこれから先も前衛的であり続け、
常に我々を挑発し続けるであろう。

生きるということは、決してそこに安住していてはいけないのだと、
そういうメッセージを投げかけ続けるであろう。





10 Nov 2014

中平卓馬の言葉を、親友の森山大道が記録している。


哀しい顔をした猫の図鑑はない。


いい言葉だ。




28 Oct 2014


わが罪の 贖われざる悔恨の

逃げ場なくして 巴里に散るなり






27 Oct 2014

どんな獣でも憐れみの心を持っている。
それさえ持たぬ私は獣以下でしかない。

これはシェークスピアの言葉である。


現代社会、とりわけ資本主義社会では競争することが基本原則であり、
競争に勝つ人間なのか、負ける人間なのか、
それが根本的な価値観となっている。
弱肉強食の動物社会と何ら変わりはない。
こんなものが、多くの血を無駄にして辿り着いた結論なのだろうか?
人間が築き上げてきた文明とはこんな野蛮なものなのだろうか?
これには残念ながらイエスと言わなければならない。
勿論、これに反して優れて聡明で文化的な人もいる。
しかし、それは残念ながら少数派である。
大多数の人間は目先の利益しか考えておらず、
勝つためには平気で他人を裏切り、見捨ててしまう。
他人を陥れるための算段を怠らず、己の利益のためなら何でもする。
これは言い過ぎではないかと思う向きもあるだろう。
なるほど一人ひとり見れば善き市民かも知れない。
しかし、現代社会を大局で動かしている力とは、あさましい強欲なのである。
まさに獣以下である。

私は決して厭世主義者ではない。
それどころか愚直なまでに人間というものを信じて止まない。
どんなに欺かれようとも、人間を信じていたい。
「自分を迫害する者のために祈りなさい」
という聖書の言葉そのままに生きている。
すべての人がそういうふうに考えるならば、
世の中から争いはなくなり、真の平和が訪れるであろう。
私はあくまでもその一人でありたいのだ。
高邁な理想があるならば、まず自分がその一人とならなければならない。

イエス様が生きておられた時代は2000年も前である。
その後の2000年間、人類は何をしてきたのか。
戦争に次ぐ戦争、暴力に次ぐ暴力。
それは現代になっても変わらない。
そしていままた世界は戦争に向かっているように思われる。

大きなことをする必要はない。
まず自分の身近な人を思い遣る、
そこから始めてみてはどうだろうか?
すべてはその積み重ねなのだ。




25 Oct 2014

「希望」とはそもそも何であろう?
我々はあまりにも安易にこの言葉を使いすぎてはいないだろうか?
この言葉は、もっと深遠なものである。

希望とは、人間をして生きることを可能ならしめる心の有様である。
これなくして生きていくことは不可能と言ってもいい。
絶望の淵を彷徨い続けた経験のある者なら、
この言葉がどれほど重要な意味を持っているか理解するだろう。

真に絶望している者にとって、
死の誘惑は甘美であり、
そこから抜け出すのは容易ではない。

しかしその中で、
僅かに差し込んだ光を発見したとき、
我々はそれを希望と呼ぶのである。

真に絶望したことのあるものにしか、希望の意味は解るまい。

我々は片時も希望することを忘れてはならない。
自分を見失い、希望することを忘れることもあるだろう。
そういう時、誰かがその人に希望することを思い出させなくてはならない。

その誰か、とは、
私であり、あなたなのだ。




12 Oct 2014

”私はもう許されてもいいのですか?”


不意にこの言葉が頭に浮かんだ。
2度、3度、心の中でこの言葉を繰り返した。
すると急に感情が一気に溢れ出し、
私は号泣した。
涙がとめどなく溢れ、
私はただただ泣いた。
ホテルの部屋で、独り泣いた。
まるで幼子のように。


少し落ち着いてわかった。
私はずっと泣きたかったのだと。
極度の緊張状態の中で、
ずっと泣きたかったのだと。
闘うことに疲れていたのだと。



パリの穏やかで静かな雨が、
私の涙を誘ったのかも知れない。






11 Oct 2014

日本人がパリで嫌な思いをしたことがある、という話はよく聞く。
パリの人はよそ者に意地悪だという話もよく聞く。

しかしパリの人は決して意地悪なのではない。
日本人がパリの人々をきちんと理解していないからそういうことになる。
日本人は自分の身に起こることを他人のせいにしたがる。
それに日本人はあらゆることに細かすぎる。
はっきり言えば面倒くさい。
そういうことをパリの人は好まないのだ。

安易に他人に頼らない、
他人のせいにしない、
他人に甘えない、
自分のことは自分で解決する、

パリに生きる人々のそういう暗黙のルールを理解する必要がある。
日本人はこのルールとは逆のことを要求するので、
好ましく思われないのである。
パリの人々のそういう価値観を理解してさえいれば、
パリは決して冷たいということはない。
むしろ非常に人情に長けた人々である。

日本にも「郷に入りては郷に従え」という諺がある。
パリに来たらパリのルールに従う。
これは当たり前のことである。
日本人だって、外国人が来たら日本のルールに従って欲しいと思うだろう。

テーブルマナーやチップの問題を考えるより、
自分の人間としての品格を考えたほうがいいだろう。
なぜならそれは自国においても同じことなのだから。




7 Oct 2014

昨日早朝にパリに着いた。
パリはまだ眠たげで、多くの店が閉まっていた。
ホテルのベッドで早く休みたかったが、
2時間ほど待たねばならなかった。
近くのカフェの窓側の席に座り、往来を眺めていた。
行き交う人々はそれぞれにそれぞれの運命を背負って生きているのだ
ということが、表情や仕草から読み取れた。
「平均的」な人など一人もいない。
すべての人が特殊なのだ。
写真に収めたい人が幾人も通って行き、
大事な瞬間を、短い時間に50枚は撮り損ねた。
私が求めていたのはこういう人々なのだ。
いままで「この人たちの中で生きたい」と思ったことはなかった。
いま、「この人たちの中で生きたい」と切に思った。
そして私は気づいた。
私のパリに対する想いが、
憧れから愛に変わったのだと。

翌日、街を歩き、多くのスナップを撮った。
どれも美しい写真ばかりだ。

そしてパリへの愛は確信となった。





3 Oct 2014


パリ、というこのしたたかな名前を持った街が、
何故それほどまでに人々を魅了してやまないのか、
何故パリでなければならないのか、
率直に言って、不可解である。
私自身、何故パリでなければならないのか、判然としない。

19の時に初めてパリの地を踏んだ。
その時は芸術についてはただの興味の対象でしかなかった。
「芸術」というのは、自分とは関わりのない誰かがやっているもので、
まさかいまこうして「芸術家」となって、そこに回帰するとは思っていなかった。
それでも、最初に訪れた時、一種の郷愁のようなものを感じた。
最初から滞在許可証をもらったような気がした。

芸術家に限らず、多くの人々がこの地を訪れ、この地で暮らし、
命懸けで生き、そして散っていった。

多くの人がこの地を愛するのは、
自らの命を懸けるに値すると感じるからかも知れない。
空回りする情熱の向かう先としてパリを選び、
あたかも聖地にたどり着いたかのように、
渇いた喉を潤す水を得たかのように、
この街を得るのかも知れない。
そしてパリは、非常に懐が深く、
そういう人々に定住を許可するのである。

いま、私はパリを渇望している。
単なる憧れではなく、確信と言ってもいいだろう。
パリが私を求めるのをずっと待ち望んでいたように思う。
私はパリを求め、パリも私を求める。
そういう関係を望んでいたのだ。

パリは命を懸けるに値する。
終わりなきパリ。

私にとってパリとはそういう場所である。




13 Sep 2014

芸術というものは、それが善であるとか、悪であるとか、
そういう二律背反の価値基準で判断するものではない、と思ってきた。

しかしいま、私は芸術というものは
正義とは何か、ということを真剣に考え、
正義の名の下に作品を創り、
そういう意図で発表していくべきものではないのか、
と考え始めている。

Art is Justice

これを表題に掲げて活動していくべき時ではないのか。
世界中の多くの人々が正義の意味を見失い、
メディアで流布される安易なものを正義と履き違え、
政府が掲げる空虚な妄想が簡単に正義となる、
そんな狂った時代だからこそ、
我々芸術家も真摯に正義の意味を考えていかなければならない。
現代における芸術の意味について、芸術が果たすべき役割について、
それぞれが考えを深めていかなければならない。

もし道に迷ったら、音楽を聴けばいい。
バッハとベートーヴェンの音楽は、
我々の進むべき道を示唆してくれる。
彼らの音楽は、我々の心の奥底に根付いている正義感を
否応なしに呼び覚まし、
我々を正しい道へ導いてくれるだろう。




9 Sep 2014

私にとって絵画とは、
数学者にとってのポアンカレ予想のようなものなのかもしれない。
数学者は数式を通してこの宇宙の原理に近付こうとする。
私は絵を描くことによって宇宙の原理を表そうとしている。
もし、一点の間違いもなく、完璧に、
キャンバスの上に絵の具を配置することができたら、
それはもう、神の領域である。
神がこの世をお創りになったのと同じことが、キャンバス上に表されたら、
それはこの宇宙の成り立ちの秘密を解明したことになるであろう。

もう15年近く、そういう想いで、そういう意図で、
絵画の制作に取り組んでいる。

いま一歩のところまで行ったことはある。
しかし、次の瞬間、消え失せてしまう。
その繰り返しだ。

真理を求める旅に終わりはないだろう。
古今東西、同じことに挑戦したものは多い。
しかし、誰一人としてそこに到達したものはいない。
ダヴィンチでさえも。

私が垣間見ている世界とはそういうものなのだ。
だから私の絵は決して楽しいものではない。

きみは私の絵を見る準備ができているか?
愚かで、そして裸であるか?




30 Aug 2014


世の中にワイン愛好家という人は多い。
その多くは薀蓄を語りたがる。
葡萄の品種、テロワールの違い、ヴィンテージによる差異、等々。
しかしそういう人たちに限って、本当にはワインを味わっていない。

世の中に写真愛好家は多い。
その多くはカメラが好きなのであって、写真が好きなのではない。
そしてこれまた薀蓄を語りたがる。
最新のカメラの動向、機能やレンズの特性、等々。
しかしそういう人たちに限って、不味い写真を撮る。

正しい心で、正しくワインを造る。
そういうワインは本当に美味しい。

正しい心で、正しく写真を撮る。
そういう写真は本当に美しい。

本当に美味しいワインとはどういうものなのか、
本当に美しい写真というものはどういうものなのか、
一人ひとりが自分自身に問いかけてみる必要があるのではないだろうか。




21 Aug 2014

”人に迷惑をかけないように生きなさい”
”人の役に立つように生きなさい”

一般的に、日本人は概ね前者の教育をし、
欧米では概ね後者の教育をする。
どちらにも一長一短はあろう。

私は勿論、前者の教育を受けて育った。
「人の迷惑にならないように」という言葉が、
「あなたは他人にとって迷惑な人間なのです」
というふうに私には感じられた。
そういうふうに言われ続けると、どうしても、
「あなたはこの世に必要のない人間なのです」
という解釈をせざるを得なくなっていく。
子供心にそういう想いを抱えて生きてきた。

成人してからは、その反動か、
人に喜ばれることは何でもしたい、
血縁がなかろうとも、相手をよく知らなくとも、
自分が関わる人すべてに、できるだけのことをしてあげたい、
そういう考えに移行していった。
しかし、そういう純粋な考え方は、時として大きな裏切りに出会う。
傷つき、苦しみながら生きてきた。
それでも、小賢しい生き方はしたくなかった。

そんな私の生き方を嘲笑う者もいるだろう。
しかし、嗤いたいやつは嗤え。
私はそういう生き方こそ、主の御心を生きることだと信じている。




16 Aug 2014

リヒテルのバッハを聴いた。

こんな解釈は聞いたことがない。
純真無垢な少年が音に戯れているようで、
まるでモーツァルトを弾いているようである。
厳格で、理知的で、荘厳なバッハはここにはいない。
グールドのバッハも純粋に音楽と戯れているようだが、
決して少年のようなものではない。

リヒテルは弱音が美しい、とよく言われるが、
強打を必要としないバッハの曲において、
その美しさは遺憾なく発揮される。

リヒテルという人は、本当に底が知れない。
巨人のようでありながら、子供のようでもある。
これはホロヴィッツにも言えることだが、
ホロヴィッツの演奏には非常に共感を覚える。
リヒテルの場合、何を考えているのか、イメージを共有しかねる。

スヴャトスラフ・リヒテル。
この巨星にどこまで迫れるか、もっと聴き込んでみなければならない。




27 Jul 2014

先日、人と話をしていて、日本を取り巻く世界情勢の話になった。
いまの世の中の動きは第2次世界大戦が起こる少し前の状況に近い、
こんな風にして戦争に突入していった、という人もいる、と私が言うと、
やはりこれから戦争になるんでしょうかねぇ、と隣にいた友人が言った。

そこで私は言った。
こういう時代だからこそ、自分がどういう立場をとるかはっきりさせなければならない。
友人は言う。
自分は勉強不足で、どういう立場といってもよくわからない。

それは意見の対立を避けるために言ったのではない。
彼は本当に世の中の状況がわかっていないのだ。
平和ボケした典型的な日本人の言葉であろう。

私は重ねて言った。
日本は過去に大きな過ちを犯し、
他国に侵略し、大勢の人間を殺戮した。
そして戦争に敗れ、不戦の誓いをした。
だから二度と戦争はしない、という誓いは絶対に守らなければならない。

しかし友人はピンとこない様子で、
ほとんどまったく理解しなかった。

世界を読む能力がなければ、それは仕方がない。
しかし、ある程度の高等教育を受けていながら、
こういう切実な問題について何も考えを持たないというのは、
ほとんど犯罪的である。

例えば、麻薬を不法所持していながら、
それが違法だと知らなかったと言っても、
どこにも通用しないのは当たり前だろう。

いまの世界情勢について、勉強不足で知らない、
というのもまったく同じで、通用しないのは当たり前である。

そういう人に出会い、
もし日本が戦争に突入するならば、
自分は何らかの行動を起こさなければならない、
その勇気を持たねばならないと、
私は誓いを新たにした。




16 Jul 2014

「写真は引き算」という言葉をよく耳にするが、
それは写真に限ったものではない。
私の絵画も、まさに引き算の美学である。

西洋の芸術はとにかく埋め尽くす、余白を残さない、
そういう形で発展してきたと思う。
それは西洋の模倣に終始していた日本の近代芸術も同じである。、

武満徹がアメリカへ仕事で行った時に、
自分はいかに少なく表現するかということを考えている、
ということを話したら、非常に奇異に思われたと語っている。
彼は引き算の美学というものを熟知していたのだ。
言い換えれば、日本固有の美、というものを常に念頭に置いていたのだろう。

足し算の美学と引き算の美学。
どちらにも一長一短はあろう。
しかし私は少なく表現し、余白に語らせることを好む。
多くの画家と同じく、私も西洋芸術に魅力を感じ、
いまもそういうものを引きずっている。
しかし、もっと深い次元で、私は日本的な美のかたちを求めている。

描きながら、何が正しいのか、どう進むべきなのか、
付け加えようとしているものは本当に必要なのか、
言葉にならない次元で、常にそういうことを考えている。
最小限で表現し得たとき、
私はそれを「成功した」と感じる。
逆につい描きすぎてしまったとき、
私はそれを「失敗だ」と感じる。

余白を多く使う空間処理のセンスは、非常に日本的であると思う。
長谷川等伯の描いたあの有名な松林図は、
芸術として最高のものであろう。
日本だけでなく、世界中でも、これほど美しい絵はないと信じる。

日本が古来より培ってきた文化は、世界でも頂点を極めていたと言っても過言ではなかろう。
過去の先人たちが築き上げてきた美の世界、精神世界を
現代の日本人は忘れてしまっている。
ナショナリズムというものを私は好まないが、
現代美術において、日本的美のかたちというものを再考すべき時だと、私は考える。




28 Jun 2014

今日、久々に万作先生の狂言を観た。
曲は「悪太郎」。

先生は昔はお酒を呑む所作をするときは、本当に美味しそうだった。
しかし今日はあまり美味しそうには見えなかった。
もしかしたら実生活でもあまりお酒がすすまないのかも知れない。

酔って、立とうとしても立てない、
暴れた後に居眠りをしてしまう時、息遣いが荒い、
これは演技なのか、体力が落ちてそうなったのか。

緒形拳が晩年に言っていた。
故意に演技したものなのか、老齢のせいでそうなったのか、
観る者がわからなくなってからが、俳優として面白いのだと。

先生はいま、そういう境地を楽しんでおられるのかも知れない。
ご子息の萬斎さんとの呼吸もピタリと合っていて、非常に心地よい。

酒に酔って眠っている場面。
先生がとても小さく見えた。
舞台の上で、ポツリと小さく見えた。
声を掛けても目覚めないのではないかと思えた。
生涯現役で、舞台の上で命尽きる。
これ以上、幸せなことはないだろう。
先生はそういうことも楽しんでおられるのかも知れない。
最高の人選での「悪太郎」。
私にはそれが先生の遺言のように思えた。
芸歴80年。
堂々たる人間国宝である。

先生の名を口にする時、「-さま」や「-さん」とはどうしても言えない。
芸術家としての私には師匠というものがいない。
それは一人の人間としてもそうである。
だが、生涯でただ一人、「先生」と呼びたいのは、
野村万作先生のみである。




16 Jun 2014

私にとって、絵画と写真とは大きく異なるものである。

絵で表現するのは、
内面を深く深く掘り下げ、精神の深奥へと向かう魂の軌跡である。
人間としてどこまで遠く深くに辿り着けるのか、
内的探求の末に垣間見たものを描く。


一方、写真はどうか。
スーザン・ソンタグの言うとおり、写真を撮ることは自己を撮ることである。
この世界のどこを何をどう切り取るか、
究極的にそこには主観しかない。
それはまさしく自己を撮ることに他ならない。
しかし私の場合、それはあくまでも外的に垣間見た世界である。
これを当たり前だと思うかもしれないが、決して当たり前ではない。

いま、我々が生きている日常の世界は、
こんなにも美しく、
こんなにも驚きに満ちている。
写真を見ることによって、
ありふれた日常がきらきらと輝いてくる。
そんな写真を撮っていきたい。


絵画表現も、写真表現も、
両方が対になって私の世界は可能になる。




6 Jun 2014

永続するものなどありはしない

すべては一瞬にして消え去る

しかしきみにはまだ見える
無から無へと連なるものが

それでもきみは立ち去る
見ることもないままに



たとえそれが神の似姿だとしても




1 Jun 2014

百年たったら帰っておいで
百年たてばその意味わかる

これは寺山修司の言葉だが、
私もまったく同感であるし、そう言いたい。

本当に真剣に芸術に取り組んでいるならば、
そういう人間は皆、同じことを思うだろう。
一般の人はそれほど真剣に芸術というものを考えてはいない。
少なくとも、生きるか死ぬか、というほどには考えていないだろう。
だから芸術家はどうしたって世の中の先を行ってしまう。
人々が追いついてきてくれるのをただ待つしかないのだ。

理解されないのは辛い。
必死で追い求め、必死で表現していればいるほど、
どうにか理解してもらいたいというのは道理だろう。
しかし、多くの人の理解できる範囲を逸脱してしまっていれば、どうしようもない。

まったき孤独の中で、あがき続けるしかないのだ。

百年の孤独。

そう、私は百年の孤独を生きている。



20 May 2014

昨日、猫のルイが死んだ。

何も食べなくなり、急速に衰弱していった。
あまりにも急すぎて、まったく実感がない。
事実を受け留めたくないというのではない。
ただ、本当に信じられないでいるのだ。

ある物語で、幼い子供たちを残して死んでゆく女性がこんなことを言っていた。

「私のことを笑って想い出せないのなら、いっそ私を忘れてください」

ルイもそう言っているような気がする。
だから、あのお茶目なルイの写真を見るときは、笑っていようと思う。

ルイは私の一番苦しかった時期をずっと支えてくれた。
自殺しかけたとき、心の中で、ルイの名を呼んでいた。
いま私が生きているのはルイのお蔭かもしれない。

18年間、本当にありがとう。



7 May 2014

カメラ雑誌を見ていて、ハービー山口氏の記事が目にとまった。

「写真家はカメラと共に旅を続け、人格をさらけ出し、
一枚の写真にたどり着く。そうして撮られた一葉一葉の
写真が人々の心の根幹を掴み、強く生きる決心を促し
未来への希望へとつながることを切に願うのである」

彼は本当に心の美しい人なのだろうと思う。

芸術というものは希望をもたらすものでなければならない、
いろいろな変遷を経たとしても、
終極的にはそういうところを目指さなければならない、
常々、私もそう思ってきた。

芸術が、病んだ精神の捌け口として機能している昨今の現代美術というものに、
私は断固としてノーと言いたい。

強く生きる決心を促し、未来への希望へとつながるような、
そんな写真を私も撮っていきたい。



2 May 2014

死の商人たちよ、

重ねて問う、

弱さ、苦悩、罪なりや




29 Apr 2014

ピリスの演奏は、何故か私の心を捕らえる。
どの演奏を聴いても、何故か心を掻き乱される。
胸騒ぎがするのだ。

彼女の演奏は極めて的確で、一音一音に色彩がある。
この一音一音の変化によって心が揺さぶられるのだろう。
それが的確であればあるほど、揺れも大きい。

ある時は控えめで、
ある時は躊躇いがちで、
そうかと思うと大胆になる。
しかもそれが実に的確なのである。
的確にその曲の核心を突く。

彼女の波長と私の波長が近いのかも知れない。
波長が近いために影響が大きいのだろう。

もしかしたら彼女も危うい均衡の上に生きているのかも知れない。



28 Apr 2014

春は花、というが、私にはそんな余裕はない。
花を愛でる心がいまの私には足りない。
いや、これはずっと以前からだ。
もしかしたら生まれてこのかた、本当に花を愛でたことなどないのかも知れない。

何という殺伐とした人生だろう。

人生のほとんど最初から棘の道を歩んできた。
そんな中で、どうして花を愛でることができよう?

身体中に刺さった棘を一本ずつ抜きながら生きてきた。
しかし、奥深くに刺さった棘は
心臓に突き刺さったまま、歳とともにより深く刺さってゆく。

いつかこの棘が私の命を奪うだろう。



6 Apr 2014

ある人から思いがけずこんなことを言われた。
「雁羽さんの絵は、血が出るようですね」
ハッとさせられた。

ずっと以前にヴァージニア・ウルフがエッセイで語っていた。
「私は切れば血の出るような文章を書きたい」
そうだ、そうなのだ。
この言葉を読んで、自分も切れば血の出るような絵が描きたいと思ったのだ。
その言葉自体はずっと忘れていたが、
意識せずにずっとそういうものを描いてきたのだ。

切れば血の出るような絵画。

これほど私の絵の本質を言い当てている言葉はないだろう。

それをわかる人に出会えたことに感謝したい。



2 Apr 2014

バッハの最期の曲、「フーガの技法」。
非常に難解な曲である。
解らないというより、何故か興味の対象にならないまま過ごしてきた。
ヴァルヒャの名演があり、グールドも弾いている。
これらはいずれもオルガンの演奏であるし、
この曲はオルガンでしか成立しないのだろうと漠然と思ってきた。
しかし、ここに高橋悠治のピアノソロの演奏がある。
進行にしたがって複雑さを増していくが、
どこまで行っても盛り上がりはなく、終始フラットに演奏されている。
グールドもフラットに弾いているが、ピアノでフラットに弾くと
この曲の純粋な構造が見えてくる。
2つの旋律が、どこまでも、どこまでも、坦々と続く。
これは、2つの旋律の関係性をどこまでも追窮しているのだ。
2つの旋律とは、神と人間、と言ってもよかろう。
どこまでも、どこまでも続き、終わりが見えない。
この曲は未完で終わっていると言われているが、
バッハが死んだために未完になったのではなく、
バッハはこの曲を終わらせられなかった、
否、終わらせてはならないと判断したのだろう。
永遠に終わらない無窮の音楽。
神の沈黙に対して、神の方へと向かう人間の旅は終わらない。
終わりがないのだと、
ここが人間の限界なのだと、
これ以上問い詰めてはならないのだと、
終わりを描くことができるのは神のみなのだと、
それがバッハの最期のメッセージなのだと、
私はこの曲の意味をそう解釈するに至った。

主に栄光あれ。




17 Mar 2014

シューベルトは歌曲が有名だが、
ピアノソナタは20世紀後半までほとんど顧みられなかった。
私もシューベルトのピアノソナタの意味がずっと解らずにいた。
遅ればせながら、最近少し見えてきたように思う。

バッハのように神と人間との関係性を極限まで追求するのではなく、
モーツァルトのように神に挑むのでもなく、
ベートーヴェンのような厳格な哲学者でもない。
彼は、どこまでも人間を愛し、
人間の持つ感情のあらゆる局面を表現し尽くしたかったのではないかと思う。
意志の力ではなく、感情の奥深さを追求したのではないかと思う。
あの深遠な世界は言葉で言い表せるものではない。

人間を愛し、人間としての美学に生きた人だったのだろう。

私はいま、本当にシューベルトを聴いていたい。



10 Mar 2014

芸術家というものはすべて哲学者でなければならない。
そして求道者でなければならない。
勿論、言語をもって語る必要はない。
ひたすらに想像力を働かせ、必死に考え続けなければならない。
求めよ、さらば見出さん、である。

芸術家に休息はない。



28 Feb 2014

ゴダールの初期の作品に「勝手にしやがれ」というのがある。
この映画の中で、ヒロインがある作家にインタヴューするシーンがある。

あなたにとって人生最大の欲望は何ですか?

不老不死で死ぬこと。


この映画の脚本はトリュフォーのものらしいが、
この台詞は間違いなくゴダールのものだろう。

20歳少し前くらいにこの映画を見て以来、
この場面が頭に残って離れない。

いまもこの言葉の意味を折に触れて考え続けている。



22 Feb 2014


一昨日、私に事件が起こった。
現時点で考えうる限り、最高の絵が描けた。
CR-4(キリストは死の縄目につながれたり)

これは私の人生の、芸術の、信仰の、苦悩の、哲学の、罪悪の、
要するに私のすべてが描き尽くされている。
私はこの作品に魂を捧げた。
これ以上の作品はもうこの先描けないかもしれない。

十字架に架けられたイエス・キリストの叫びが描かれている。
キリストの聖性を帯びた肉体の悲鳴が描かれている。
それは私の叫びであり、悲鳴でもある。
私の、というよりは神を前にした人間の叫びである。

しかしこの絵はまったく破綻することがない。
不必要なものは何ひとつなく、すべてが完全なものとなっている。

これは私のすべてだ。
神と人間の関係性を完璧に言い表している。

これは紛れもなく傑作である。
不遜に聞こえるかもしれないが、これはもう人類の遺産である。
これはもう私の手を離れている。
私が描いたものには違いないが、
私だけの所有物であるべきではない。

この絵は、神なき現世への最高の贈り物である。
人間の発するあらゆる問いかけへの答えである。
神が示し給うた人類へのメッセージである。

これはもう私の作品ではない。




16 Feb 2014

小林秀雄はその著書の中で、
モーツァルトのレクイエムを聴くとき、
ひとりの天才が崩壊していく姿をまざまざと見る、と語っている。

いま私が描いている絵を彼が見たら、何というだろう?
やはり一個の人間が崩壊していく様を見るだろうか?
戦慄を覚えるだろうか?

十字架のわずかな傾きでもバランスを崩してしまう。
そういう危うい均衡の上に成り立っていることを
彼は見逃さないだろう。
そして言うだろう。

崩壊寸前であると。



16 Feb 2014

ひとりの人間を本当の意味で受け留めるということは、
掌の上に乗せられたひとひらの花弁の感触や重さを
厳粛に受け留め、感じ取ることに近い。
そのひとひらの花弁を軽いと感じるか、重いと感じるか、
それは、その人間が物事をどこまで受け容れる用意があるかにかかっている。

吹き飛ばすこともできよう、
握りつぶすこともできよう、
しかし、そういう儚いものを大切にできることこそ、
人間として最高の能力であると
私は信じている。




5 Feb 2014

ヨハン・セバスチャン・バッハ。

彼の人生は比較的平坦で、順調に歩んで行ったように見える。
その音楽も、極めて理知的で、整然として聞こえる。
しかし、よく聴いてみたまえ。
彼の内部で、どれほどの嵐が吹き荒れていたか、想像してみたまえ。
最後の最後まで闘いの人生だったことが読み取れる。

バッハは無数のフーガを書いた。
もはやフーガというものが時代遅れになっても書き続けた。
ひとつのことを、ひとつのことだけを追求し続ける。
それがどれほど苦しく険しい道だったのか、
どれほど多くの精神的冒険を生きたのか、
彼の心に想いを馳せずにはいられない。

フーガを書くこと。
それは彼にとって、神と人間の関係性を追及することだった。
完璧なフーガを書こうとすること。
それは神の摂理を具現化することだった。
ひとつの音符とそれに続くもうひとつの音符。
その二つの関係を極めるだけでも難しい。
それが無数に集まってひとつの曲となる。
これはもう奇跡としか言いようがない。
信仰という支えがなければこんなことはできなかっただろう。

私もバッハのようでありたい。
バッハの音楽のような絵を描きたい。




2 Feb 2014

今日私は天使に出会った。
彼女の名はアフロディーテ。
彼女はいとも軽やかに
死の電車から私を連れ出した。

降りた場所は、真っ白で静謐な世界だった。
遠く彼方からアルヴォ・ペルトの音楽が聞こえた。



25 Jan 2014

弱さ、苦悩、罪なりや。



23 Jan 2014

運転手もいない、車掌もいない、無人の電車。
すべての駅を無視して通り過ぎ、決して止まることがない。
いつまでも明けない夜を、この電車は走り続ける。
これは死の電車だ。

そして私はその唯一の乗客だ。



22 Jan 2014

それにしても、私というこの人間は何だろう?
人間として最も醜悪でグロテスクな部分も、
最も清らかで儚い部分も、その中間も、
すべて己の中に内包している。
生まれてからずっと積み重ねてきた、すべての思考とすべての体験を
余すところなく、その重さに耐え切れないほど背負い込んでいる。
重さで足が地面に食い込むほどだ。
膝もがくがく震えている。
もはやこれ以上、どこへも進めないのかも知れない。



19 Jan 2014

この日本という国は、民主主義が行われているようで実は行われていない。
国民一人ひとりが意見や思想を持ち、
それによって代表者が選ばれ、
その代表者に選ばれたものが何かを決定しているように見える。
しかしこれは嘘である。
それは市町村議会レベルであっても、国会レベルであっても同じである。
ある一部のものが全てを決定している。
国民一人ひとりが何を主張しようとも、
世の中の大きな流れは変えられない。
この流れは誰にも止められない。
ある一部のものだけがこの国の流れを決定している。
この国に民主主義など存在しない。

ある一部というのは、国会ではない。
政府でもない。
首相でもなければ、官僚でもない。
目に見えないところに黒幕がいる。
大きな金の集まるところに黒幕がいる。
それは長者番付などには決して姿を現さない。
しかし何かの折に、少しだけ姿を現しているに違いない。
水面下で巨額の金がどう動いているのか、注視しなければならない。



15 Jan 2014

私には戻りたい過去というものがない。
あるのは哀しい記憶ばかりだ。
過去のどの地点にも戻れないのなら、前に進むしかない。

これは非常に苦しみを伴うものである。
しかし後戻りはできない。

ただひたすらに、ひたむきに、前に進むしかないのだ。



10 Jan 2014

この世で完全な形というものがあるとすれば、それはおそらく2つある。
円と十字。

この2つは全く相反するものであるが、
それ故にこそ両方存在するのである。

私は十字を選ぶ。
私はこれから十字架だけを描いていこうと思う。
そうでなければならない。



4 Jan 2014

今日、大変な勘違いに気付いた。
芸術家というものは何かを創造するものだ。
そう思ってきたが、これは大きな間違いである。

あるべきものを、あるべき位置に正確に配置すること。
画家はキャンバス上に絵の具を、
音楽家は五線譜に音符を。

言い換えれば、神の摂理というものを正確に表すこと。
これが芸術家のなすべきことのすべてだ。
それ以上でもそれ以下でもない。

絶対にそれ以上であろうとしてはならない。




3 Jan 2014

人間というものはこの世で最も邪悪なものなのだろうか?
人間はこの宇宙の癌細胞なのだろうか?

それに対する明確な解答は聖書にある。

神は自分のひとり子を人間の姿でこの世にお遣わしになった。
それほどまでに神は人間を愛しておられた。

自分が人間である限り、このことを信じるべきなのだ。














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絵画における技法について   26 Apr 2001

技巧的であることは不可能だ。
ぼくは身につけた技法を次から次へと捨て、
単純化の一途を辿っている。
技巧的であるということは、表面的なディテールに左右されてしまうことであり、
畢竟、深部へと至る道が閉ざされてしまう。
絵は、純化されなければならない。
純化するということは、
根源へ辿り着こうとすることだ。
描くという行為を通して、
生命の最も深いところに突き進むには、
あらゆる技巧を捨て、
裸にならなければならない。
皮を剥ぎ、
果肉を貪り、
種子を剥き出しにしなければならない。
自らの深奥をさらけ出すということは、
確かに難しい。
無知で、無防備な自分。
しかし、そうしなければ、
その恐怖を乗り越えなければ、
本当の芸術はあり得ない。
最も深いのは表層である。
嘗てドゥルーズがそう言っていた。
それはある意味では正しい。
しかしそれはあくまでも思想的概念であって、
方法論ではない。
ぼくはどうしても、
生命の根源へ、
辿り着かなければならないのだ。



寺山修司のこと   27 Apr 2001

ぼくが寺山修司という人間を知ったのは
いつのことだったか、覚えていない。
しかしそれは衝撃的なものだった。
ことに芸術家を目指す青年にとっては。

”ほどかれて少女の髪にむすばれし葬儀の花の花ことばかな”

などというものに
わけもわからず感性を刺激されたものだった。
それから彼のことは暫く忘れていたが、
「田園に死す」(映画)を目にする機会があった。
そこでまた忘れていた衝撃が戻ってきた。
狂乱状態の女が花弁を貪るシーンなど、
鮮明に脳裏に焼き付いている。
詩集をパラパラとめくってみた。
「何にでも値段をつける古道具屋のおじさんのはなし」が
目にとまった。

ぼくは訊ねる
---ロバとピアノは
どっちが高い?

おじさんは答える
---ピアノだよ

じゃあ、ピアノと詩集は
どっちが高い?

ものによるけど
詩集が高いことだってあるさ

じゃあ、詩集と春とは
どっちが高い?

春だよ もちろん
季節は 超高級品だから

じゃあ 季節と愛とは
どっちが高い?

愛だろう
めったに 売りには出ないけど

そこでぼくは 最後に訊ねる
ぼくの一ばん知りたい質問

---愛となみだは
どっちが高い?



春の日の秋   1 May 2001

喧噪の向こうに黄昏が見える
木々は枯れ
春だというのに、秋の匂いがする
春は親く、秋は疎いと
人はいう
でもぼくにとって春は
眩暈を強いる
強すぎる生命力は
弱者を嘖む
弱肉強食は自然の摂理といえど
ぼくはそれを畏れる
弱きも強きも
生命は平等であるべきだ
生命は所有されるべきものではない
所有された生命は
アウシュヴィッツの
囚人と同じだ

生命の解放
ぼくの永遠のテーマ
何からの解放?
権力から
権力とは?
あらゆる力学構造
そしてその絶ち難く悪循環する関係性
何にでも弊害は
あるかもしれない
しかしぼくはそれを哀しく思う

燦然と輝く緑の自然よりも
葉を失った褐色の自然の方が
生命を感じさせる

すべての終焉は
根源からの胎動でもあるのだ



夜   16 May 2001

芸術家は
何かを創り出す
と人は思うかもしれない
しかしぼくは
何も創らない
何かを創り出そうとしているとき
それは自分が間違った方向に進んでいるときだ
ただひたすらに
待つしかない

すべてのものには時がある

時が熟するのを
ぼくが何かを創り出そうと仕向けられるのを
ただじっと耐えなければならない

心臓が砕け散るまで
時間を堪え忍ばなければならない

これこそが
芸術の
真実だ

しかし
熟すべき時がもう訪れないとしたら?

すべてが消え去ったとき
ぼくの前に
何が示されるだろう

消えゆく夜に
何を求めて?



音楽と絵画   17 May 2001

ふと、エリック・ドルフィーの言葉を想い出した
The music's gone
in the air,
and
we can never
capture it again.

彼は自分の音楽が
空中に消え去っていく様を感じながら
大きな不安に追い立てられながら
演奏を続けていたのだろう

音楽と絵画
消えてしまうという点では
どちらも等しい
つまり、一度なした行為というものは
二度と消し去ることはできない
しかし、それは
人の脳裡から次に瞬間には消え去ってしまう
もはや取り戻すことはできない
直接の受容体即ち感覚器官が
眼であるのか耳であるのかということは問題ではない
その感覚器官が受け取る刺激が
脳でどれだけ増幅されるかということが
問題なのだ
しかしもっと大きな問題がある
ある刺激
それが発生したものであれ、受容したものであれ
必ず変容してしまう
原形は失われてしまう
すべてが一瞬のうちに失われてしまう
いかなる手段をもってしても
取り戻すことは
できない



指先の快楽   28 May 2001

絵を描く
筆を走らせる
ピアノを弾く

いずれも指先のわずかな運動でしかない
しかしこのわずかな運動が
脳に重要な刺激を与える
私の創作活動は
すべて指先から生まれる
奇妙に聞こえるかも知れないが
指先の感触が
すべてを方向付けるのだ
感触の微妙な差異が
ぼくを新たな地平へと導いてくれる
感触の変化が
イマージュを変化させる
感触の連続的変化が作品を形作っていく
つまり
ぼくの創作は
感触の産物なのだ



なみだ   17 Jun 2001

人の目から
なみだが
こぼれ落ちるのを見た

心が血を流し
それが透明な美しい結晶となって
目から溢れ出る

人がなみだを流す瞬間
これほど美しい時があろうか?

なみだのなかに真実がある





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